2018年03月05日
旅立ち
ようやく寒さが和らぎ、
暦が3月に日付を変え春の訪れを告げた朝、
祖父(享年98歳)が旅立ちました。
お通夜、葬儀にご参列くださったみなさま、お忙しいところありがとうございました。
会社を定年退職した後は、市議を3期務め、
傍ら、水墨画の講師として、100人余りの生徒を抱えて、
3年前まで、現役で走り回っていました。
生まれた時から同居していた祖父に、初孫である私は特にかわいがられ、まさに目に入れても痛くない、という存在で惜しみない愛情を注いでもらっていたと思います。
「お前を背中におんぶして、いろんなところへ出かけていた頃が一番幸せだった。」と懐かしい目をして話し、
独立してからも、時々顔を見せに行くと「困ったことがあれば、何でもおじいちゃんが相談に乗ってやるから」、「風邪をひくなよ」と
声をかけてくれました。
私が子どものアトリエを始めた時、「とにかくみんなの笑顔が絶えない、楽しい教室づくりをしなさい。それで人は自然に集まるから。」と
アドバイスしてくれた時も80歳を超えていましたが、
そんな祖父の存在を頼りにし、また尊敬していました。
94歳の誕生日に、ポロシャツをプレゼントに持って会いに行くと、すぐさまその場で着替えて、「ピッタリや!ありがとう!」と元気に笑い、
いつもと同じように「体に気をつけろよ。」「うん、おじいちゃんも。」と交わしたのが最後の会話でした。
ある朝、いつものように朝の支度をしていると、窓から救急車の音が聞こえました。
よく耳にする音なのに、
その時は変な胸騒ぎがしました。
間もなく、母から電話で、「おじいちゃんが倒れた。」という連絡がありました。
94歳という年齢、日頃から覚悟はしていたつもりでしたが、
ほんの2週間ほど前に、元気で話をしたので実感がわかずに、そのまま病院へ走りました。
命は取り留めましたが、脳梗塞ということでICUに入っており、年も年なので、血栓を溶かすなどの処置はせず、このまま寝たきりで胃瘻になってしまうであろう、という話でした。
あんなに元気だったのに、もう普通に会話をすることはできないのか・・・
母方の祖父母、そして父方の祖母は、在宅で元気で暮らしていましたが、90歳を前に、少しずつ足腰が弱くなり家に引きこもりがちになり、
少しずつ老い、90歳を超え皆穏やかな死を迎えたこともあって、
その時、初めて、家族を突然失うという感覚を覚え、涙が止まりませんでした。
しかし、しばらくしてから祖父は驚異的な回復力を見せはじめ、マヒした利き腕と反対の手で食事ができるまでになり、訪ねていくと、私と認識して少し笑顔を見せるようになってきました。
以前の気丈な祖父とは違い、言葉も話せず、すっかり痩せて弱々しいおじいちゃんなってしまいましたが、
私が訪ねていくと、「風邪ひくなよ」、と話しかけられているような気持ちになりました。
あれから、3年近く経ち、
入退院を繰り返しながらも、懸命に生きていて、
命ってすごいな、と感じさせられました。
訪ねるたびに、少しずつ、旅立つ準備をしているようで、
それに伴い、私も心の準備が出来てきていきました。
あの時、あの朝、そのまま命を失っていたら、私のショックはまだ消えていないのではないかもしれません。
今もはっきりと交わした会話を思い起こして、悲しんでいるのかもしれない、と思います。
こうして、会話もできないけれど、老いという自然な流れと寄り添いながら、少しずつ別れを惜しみ、心の準備を整え最期を見届けることが、人間としての自然な流れなのではないかと思いました。
介護の大変さを考えると、軽々しく口にはできないですが・・・
倒れる前日まで携帯電話を片手に走り回っており、まだまだやりたいことがあった様子ですが、
きっと天国でがんばっているでしょう。
何かあったら支えてくれていた祖父がいなくなってさみしいけれど、
私もしっかり前に進もうと思います。
暦が3月に日付を変え春の訪れを告げた朝、
祖父(享年98歳)が旅立ちました。
お通夜、葬儀にご参列くださったみなさま、お忙しいところありがとうございました。
会社を定年退職した後は、市議を3期務め、
傍ら、水墨画の講師として、100人余りの生徒を抱えて、
3年前まで、現役で走り回っていました。
生まれた時から同居していた祖父に、初孫である私は特にかわいがられ、まさに目に入れても痛くない、という存在で惜しみない愛情を注いでもらっていたと思います。
「お前を背中におんぶして、いろんなところへ出かけていた頃が一番幸せだった。」と懐かしい目をして話し、
独立してからも、時々顔を見せに行くと「困ったことがあれば、何でもおじいちゃんが相談に乗ってやるから」、「風邪をひくなよ」と
声をかけてくれました。
私が子どものアトリエを始めた時、「とにかくみんなの笑顔が絶えない、楽しい教室づくりをしなさい。それで人は自然に集まるから。」と
アドバイスしてくれた時も80歳を超えていましたが、
そんな祖父の存在を頼りにし、また尊敬していました。
94歳の誕生日に、ポロシャツをプレゼントに持って会いに行くと、すぐさまその場で着替えて、「ピッタリや!ありがとう!」と元気に笑い、
いつもと同じように「体に気をつけろよ。」「うん、おじいちゃんも。」と交わしたのが最後の会話でした。
ある朝、いつものように朝の支度をしていると、窓から救急車の音が聞こえました。
よく耳にする音なのに、
その時は変な胸騒ぎがしました。
間もなく、母から電話で、「おじいちゃんが倒れた。」という連絡がありました。
94歳という年齢、日頃から覚悟はしていたつもりでしたが、
ほんの2週間ほど前に、元気で話をしたので実感がわかずに、そのまま病院へ走りました。
命は取り留めましたが、脳梗塞ということでICUに入っており、年も年なので、血栓を溶かすなどの処置はせず、このまま寝たきりで胃瘻になってしまうであろう、という話でした。
あんなに元気だったのに、もう普通に会話をすることはできないのか・・・
母方の祖父母、そして父方の祖母は、在宅で元気で暮らしていましたが、90歳を前に、少しずつ足腰が弱くなり家に引きこもりがちになり、
少しずつ老い、90歳を超え皆穏やかな死を迎えたこともあって、
その時、初めて、家族を突然失うという感覚を覚え、涙が止まりませんでした。
しかし、しばらくしてから祖父は驚異的な回復力を見せはじめ、マヒした利き腕と反対の手で食事ができるまでになり、訪ねていくと、私と認識して少し笑顔を見せるようになってきました。
以前の気丈な祖父とは違い、言葉も話せず、すっかり痩せて弱々しいおじいちゃんなってしまいましたが、
私が訪ねていくと、「風邪ひくなよ」、と話しかけられているような気持ちになりました。
あれから、3年近く経ち、
入退院を繰り返しながらも、懸命に生きていて、
命ってすごいな、と感じさせられました。
訪ねるたびに、少しずつ、旅立つ準備をしているようで、
それに伴い、私も心の準備が出来てきていきました。
あの時、あの朝、そのまま命を失っていたら、私のショックはまだ消えていないのではないかもしれません。
今もはっきりと交わした会話を思い起こして、悲しんでいるのかもしれない、と思います。
こうして、会話もできないけれど、老いという自然な流れと寄り添いながら、少しずつ別れを惜しみ、心の準備を整え最期を見届けることが、人間としての自然な流れなのではないかと思いました。
介護の大変さを考えると、軽々しく口にはできないですが・・・
倒れる前日まで携帯電話を片手に走り回っており、まだまだやりたいことがあった様子ですが、
きっと天国でがんばっているでしょう。
何かあったら支えてくれていた祖父がいなくなってさみしいけれど、
私もしっかり前に進もうと思います。
Posted by ayumi at 18:49│Comments(0)
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